昭和54年07月23日 月次祭
今日の神饌物のお野菜にかぼちゃのお供えがしてございました。前の方には真っ赤なかぼちゃ、後ろの方には真っ青な、美味しそうなかぼちゃがある。ここ当りのまぁ方言と言いますかね、あの、みたけぼぶらという事を申します。今はあんなかぼちゃは少ないですね、いぶしこぶしのこうある、もういぶしこぶしのあって、見かけの悪いとが美味しいって言います。もうぬてぇっとしからさぁ、見かけの良かとは美味しくないと言う訳です。見かけの悪い。
ここの信心のまぁ芯をなすものは、私は本当にあのう馬鹿と阿呆と言われるくらいに思われるくらいに、自然の働きに順応していくという事だと思うんです。いわゆる成り行きを尊ぶとか、成り行きを大切にするという事は、大抵な言わば馬鹿と阿呆にならなければ出来ません。ひさどの関さんじゃないですけれども、最近はどうぞ偉大な馬鹿にならして下さいというお届けがございます。いわゆる偉大な馬鹿になる。偉大な阿呆にならしてもらう。だから見かけだけは、ぼうふらになっとる。
ぼうふらというのは馬鹿と阿呆の代名詞のようにこの辺では申します。ですから見かけだけではいけん。本当に食べてみて美味しい、馬鹿と阿呆になっておるということが有難い。言うならその中には、黙って治めると言った様な事もございます。こう言う事を黙って治めれる自分が有難い、これはいよいよ私はぼうふらな信心ができておる時だとね。これは言うとかにゃならん、これだけは言わにゃでけんと、いいやこれはいくら成り行きを大事にするでもこう言う事は受けれられんという事。
それはもう本当に受けられないものもあります。いや神様が受けてはならんと仰せられる事もございます。けれども神様が私のために下さった修行、成り行きというものは分かります、段々信心をさして頂いておりますとね。そこんところをひとつ見極めのつくように段々ならなければなりません。今日きんすの時にいろいろまぁ偶々私の修行時代の話が出たんですけれども、出来んから帰りましてもう資本はないですから、もうそれこそ無資本で福岡の街に出まして、いろいろとお商売さしてもらいましたが。
その時分に私がまあ豪語しておりました。商売というものは資本がなからなければ商売はできんなんて思う商売人じゃつまらん。資本は無資本のなからでも、やっていけれるのが商売だと。それを大きくしていくのが本当の実力だと、資本があって商売するのは誰でもできる。と言う様な言い方をしておる。なるほどあそこに一年余りというものは、もうそれこそ置いたものを取るような、もう只々不思議。私はその時分に今から思いますと、慢心しておったと思う。私の願う事ならざる事ない。
と言う様な感がございました。でそういう話をすると皆んなが、それこそ大向こうから大受けに受けておった時代でした。ところがねそういう私の信心の上に、もうどうにもできないという致命的な事が次々と起こってくるようになって、いわゆる無条件降伏手を挙げた事になった。あらゆる修行もしてみた。いろんなお話も聞かせて頂いたけれども、感じればおかげを頂き、修行すればそれが実の実ると言う様な時代からね、全然言うならばおかげが頂けないという時代に突入していった。
そして今思いますのに今日も私話したんですけれども、あの時分はやはり私の慢心だっただろうと、例えば一本の橋をこう渡っていっておったけれども、その橋の言うなら手摺も壊れておるところも気がつかずに、そこから落ち込んでおる様なもんだったと。もうまっ逆さまに落ち込んだ。そして私がおかげを受けたと思うのは、その落ち込んだけれども、もうただでは這い上がって来る、ただ濡れしぼたれになって上がって来る様な事ではならない。もう落ち込んだが最後それこそ両脇にね、鯉を。
それこそ鯉取りまあしゃんじゃないけれども、抱えて上がる様なおかげを頂かなければ、上にあがらんと言う様な生き方が、私がもう一切の雑業を、それこそ振り捨てて、ただ私の上に起きてくる一切の事柄を、いよいよ成り行きを、言わば大切にしていくという修行が始まった。その時分には成り行きを大切にすることはご神意である、御神願である事を知らなかった。ただ修行の手立てであった。そして腹を決めたらもうどう言う事が起こってきても、どう言う事があってもです。
受けると腹を決めたら私がね、あのやる気になりゃ誰でもできるというふうに、私がもう今でも申します事は、私自身ができたから言っておるんです。4年半続きました。その4年半には、神様がそういう事まで受けたんでは、と仰せられるような事まで受けてきて、あのいつも頂きますようにね、ある丁度もう後半年で5年の記念祭を仕えるという、春のご大祭を仕えた夜に頂いたのが、ほうれん草を畑からこう引っこ抜いてきたばっかりのような、ほうれん草を御神願に頂いて。
今まではこのほうれん草をね、まぁ力になると言うてはね、それこそ洗いもせずひげもむしらず、赤い葉がついておってもそのまま、そのがむしゃらに食べて来た様な4年半であったけれども、これからはもういよいよ栄養になる所だけを、赤いものは摘み切って捨てろ、ひげの生えとるごたるとこは綺麗に切って捨てて、泥は綺麗に洗い落として、おいしく頂けれる所だけを頂くようにと言うて、頂いて初めて合楽に成り行きを尊ぶ成り行きを大切にするという信心が、今の合楽理念の母体になったのです。
ですからね本当におかげおかげと言うけれども、その願うたらおかげを頂いたあぁだという、そのおかげそれがいろんな省みてです、自分の信心の受け物もなしに頂いておるおかげというものは、一つの過程としては素晴らしいけれども、そのおかげの世界からいよいよ御神徳に触れていく、御神徳を受けて行くという世界に進んでいかなければならないのです。でなからなければ信心の味わいはありません。増々慢心が募るばかり。空の財布を皆んなに話しながら見せて。
明日はこれにいくらどうでも支払いがあるが、明日にはこの財布の中にそのお金が必ず入ってくる。と言った様な話をしてました。もう確信してました。さぁその次の又そこの会合にはこの前どげんなりましたかで、続きも聞く様な事じゃった。それがこういう手立てでああいう手立てで、お金が払う事が出来たと言った様な話でしたから、拍手喝さいでした。そしてそういうおかげの世界から、言うならば力を受ける徳を受けるという生活、言うならばアマの信心からプロの信心に入っていったと思うんです。
私は合楽で皆さんにお願いする事は、これは神様の願いでもあるのですから、氏子信心しておかげを受けてくれよというのは、ただ今申します様な私の全般の信心はおかげを受けるという信心でしたけれども、それが受けられなくなった。どげな修行をしても神様が動こうともなさらない様になった。そこからです今までの修行ではいけなかったんだと分ってきた。今申します今から考えますと。言うならば表行の類ではいけなかったと、まぁあの時分に水垢離をとると言った様な修行がまだありましたけれども。
皆さんも一生懸命しておられましたけれども、そういう表行的な信心からいよいよ、んなら成り行きを本気で黙って受けて行く、本気な大きな偉大な馬鹿と阿呆にならせて頂こうという、信心に突入していったのです。
そして段々段々分らして頂いたのが、成り行きそのものが神様が、の働きでありもう神愛の現れあり、もう新たに求め給う修行なのだと分かってきた。起きてくる全ての事柄というものは、今日研修の時に聞いて頂いたんですけれども、一切をだから修行として、きつい時にはねもうそげな事受けられんと言う事を、それをならそういう修行を黙って言うなら血の涙の出るような時でも受けてきた。だから一切を修行として受けて、初めて一切が神愛と分かるんだというお話をしました。今日は研修の時に。
一切ここではもう確かにここでお話を頂いております、一切が神愛と言う事はいろんな角度から説かれるから分かります。神愛だと言う事が分かります。けれども実感として分からして頂くというのは、一切を修行として受けてみてその後に分かるのが、あぁ神愛だった神様がこういう力も下さろうとする働きであったと、分かってそれが溜まりに溜まって、一つの御神徳の形になって来るんじゃないかと言う風に今日は申しました。
今日私皆さんに一時のもういよいよ夏季信行も、後一週間あまりで終わる事になります。教主金光様のご見解を芯にして、皆さんがもうそれこそ淋漓と汗を流してのそれこそ、ここのお広前が割れるような声で御祈念があっております。それももうあと一週間今日御本部におります、井上たもん先生から電話がかかって参りました。丁度一時の御祈念が終わって皆さんが帰られたという所に電話が掛かって参りました。金光様が20日の御手術も無事成功なさった、そしてその経過も大変およろしいという電話であった。
まぁ皆さんにご報告申し上げるわけでございますけれども、どうでもやはりまた元通りの御用ができるように、尚々お願いしなきゃならんのです。ですからあと一週間残っておるのをいよいよ言うなら仕上げの積りで、一つ目細うひとつ頂きたいまだ参加した事のない人は、一日でも一つ参加してみて合楽の信心を共にさして頂いておる、修行さして頂いておるという実感を、一つ皆さんも味わうて頂きたいと言う風に思います。今日の一時の夏期信行のミニ御理解が。何だったかね御理解何ていう御理解だったか。
今日一時の御理解、うん「まめなとも信心の油断をするな」という事でしたかね。だからこれは元気だからというて油断をするなと、今日御祈念がすぐ済んでから、あの金子さんという方がお参りをしてきました。もう先生この頃はもう言葉に言われんぐらいに、おかげを頂いております。お願いしとったことは皆成就しました。ところが不思議にね、その体が言う事聞かんでお参りができません。一時の御祈念がある息子がこのまる少のあれに出てきておるから。
お母さん一時の御祈念があるけん、12時半にお参りせなこてもうお広前入られんばいと言うから、一遍お参りさして頂こうと思いよるけど、今日もそんなわけで遅うなったと言う様な具合です、人間というものはねその難儀な時にはね、やはり一生懸命お参りをするけれどもやれやれという事になると、人間は必ずそこに腰掛けるというかね、人間の誰しもが持っとる事だと思いますけれども、信心はそういうところを、大切にしていくところをまぁ教えるのです。
今日の御理解の書き出しに「かしこみかしこみもまうす」有り難うございますと言うおかげを頂きましてと言う、それがマンネリ化したらダメだと言う事でした。皆さんが必ずお道の信者が言う事は、おかげを頂いて有り難うございましたとか、本当におかげを頂いて有難いと思うておるかと、それが実感に感じておるならば、お礼参拝せずにはおれないのだと、ただ思うておるだけでは神様には通じない。「かしこみかしこみもまうす」あのその3つの表現が冒頭に書いてございましたが。
私はうちの修行生に今日はね。どういうわけに「かしこみかしこみもまうす」という事を、あの冒頭に書いたか皆分かるかと言うて質問をしました。皆さんどうでしょうか、有り難うございます、おかげを頂きましたと、これはご信者さんの皆んなが言う事である。本当なものであるかないか分からんにしても、もう皆が言う今日もおかげを頂きました、有り難うございましたとは言うのです。だから心からそれが有り難いと言えれるようになるということが、言わばこのご信奉者の方なんだと。
「かしこみかしこみもまうす」という事は、あれはプロに対する言葉だよと言うて話したことでした。皆さんはあんな事言いませんもんね。四神様自ずとそれがそれで、必ず「かしこみかしこみも」、言うならば御神前に本当な心から、かしこみかしこみ申される、生きた神様を恐れおののくほどしの心で、拝めれるようになったら、私はもうプロだと思います。ならプロが果たして「かしこみかしこみ」言うとるけれども、かしこんで果たして頂いておるかと。
あの使いがけはね、かしこみかしこみもまうすという事は、言うならば教師に対する反省を促したものである。有り難うございます、おかげを頂きましたは、信者が言っておるその言葉を反省せよという事なのだよと言うてお話したんですけれども、今日は皆さんに私が聞いて頂きたいのは、偉大なる馬鹿と阿呆という事ですから、これはねただおかげの世界ではない。言うならばお徳の世界で力の世界、あの世までもそれこそ今日の命のために、お互い信心さして頂かなければならんという事。
だから合楽の全信奉者の皆さんが、全部プロ的な信心を、言うならばおかげ信心からお徳を受ける信心に、進んでいかなければならないという事でございます。神の言う事は途中で落としてしまい、それで神を恨むような者がある。神の言う事はそれこそ、神の一言は船にも車にも積めぬ程の神徳があると教えておられる。船にも車にも積めぬ程の神徳を受けるという事が、言うならば神様の願いである。そこで私共もそれを願いとしなければならない。そこに神の願いと私共の願いが交流しだしてくるのです。
神様はお徳を受けてくれよと言いなさるとに、こちらはおかげを受けたいとばっかり言う、いつまでもこうおかげを受けても本当のところの交流に、互い違いになってくる。そしてそういうおかげはいつまでも続くもんじゃない、そういうおかげを頂くと、必ず人間誰しもが、言うならば慢心が出る。そしてまたそれこそ真っ逆さまに、私がこれは体験者ですから、ところは見習うて頂かにゃならんけれども、そういう川の中に落ち込むと言った様な事のないような信心を、皆さんして頂きたいと思うんですね。
だからおかげも頂かにゃなりません。今日はある修行生の方が発表しておりましたが、大変事業に失敗をして、まぁにっちもさっちも行かん様になってお参りをしてきた。毎日日参をして来よった。ところがここ2,3日お参りをして来ないと思ったら、少しばかり纏まったお金が入った、お金を持って言うならば、あぁいわゆる今の言葉で言うと、蒸発したという事でしょうか、それで今度はお母さんが今度はもう、本当に死ぬ思いでそのう毎日ここ2,3日参って、見えられておりました。
そしたら先日から電話が掛かってきて、沖縄から電話が掛かってきた、沖縄まで飛んでおった、そしてそれをもう使い果たしたか、自分はここに入れておったお金をいつか、盗られたと言うんですが、もう無一物で宮崎まで帰ってきた。それも便乗さしてもらう車があって宮崎の駅から、もうそれこそ旅館で首を括ろうと思うて、その首を括ったらその綱が切れたげな。はぁこれは神様がまだ早いち言いよるばいと言う様な風に思うたんでしょう。それからもう致死量の薬も飲んだ。
それでもうもうつうともせじゃった。それでもねどうでももう生きては帰られんと言うので、まぁ最後にねまぁ家内の声と子供の声を聞きたいと、これは不思議な事ですね、親がおるけん親の声を聞きたいと言わん、嫁御の声と子供の声がこれはほんでほんなこってすばい、もう人間ちゃ私が兵隊に行っておる時にもう、それっこそもうくどうしおに行くのが、暑い時にこうなじつい立っとかなんとですね、もう真っ暗うなって来てもう分からん。倒れる寸前ちゅうとこになるんですよ。
そん時に頭をちらちらっと掠めたのは確かに子供の事でしたね、そして次には家内の事でしたよ。親の事私が親孝行、親孝行と言いよるばってん、親のことはとうとう思い出さんじゃったっち。もういよいよん時には。まぁ私は今日の話を聞きましてね、そんなもんだと。だから形の上ででもこれは親孝行は本気でしよらんと、言わば大変なこのひらきがこうできてくるんです気分の上にですね。そして家内の声を聞かしてもらい、子供の声を聞かせて頂いたら、このそのそういう電話をかける前にお便所に入ったね。
もう食べとらんもんじゃからもうへとへと足も上がらん事になっとる。それでね便所行った言うなら上からねひらひらひらっと何か落ちてきたげな、何じゃろうかと思うたら500札だった、手の切れるごたる500円札がここに舞い降りてきたっちゅう。ほう本当に500円札があのうと思うてね、そして近所ばこう見たけれども金が落ちとったちゅう人がおらんからそれを頂いてそれで電話を掛けた。そして宮崎の駅にいるという事をまぁ言わねばならない事になったから。その駅まで迎えに行ったわけなんです。
もうそれこそあのうへとへとになって帰ってきた。本当にもうそういう人間が生きるとか死ぬとかいうぐらいな、ところを通って信心に打ち込んだら、それこそ御神徳が受けられるであろうにね、とまぁ言うた事でしたけれどもね。信心というものを頂いておらんとです、それこそいよいよいかんもう、自分が死んで申し上げすればよいと言った様な事にすらなるけれども、それこそ4,5日ではあったけれども、お参りをさして頂いておったおかげで。話を聞くとどこででも沖縄ででも、鹿児島ででも宮崎でもやはり。
神様のご守護の中にあったという事を、実感できると言う様な意味の話をしたという話を、今日はしてました。世の中にはそういう難儀な人悲しい事がいっぱいあるです。だからそういう時になってんなら、一心不乱の信心をしてお徳を受けるという事もありますけれども、信心しておればんなら、私が打込んだ様な所に、打ち込まなんと言う事じゃない、今合楽理念というのはね。楽しゅう嬉しゅう有り難う、あんまり有り難う嬉しゅうでくるもんだから肝心な所には。
言うならば見かけぼうふらに終ってしまうような事に、なりかねないでおるのじゃないでしょうか。今日の昼のミニ御理解の中からです、有難うございます確かに言いよる。おかげ頂いても言いよるけれども、そしてならそれも嘘ではない。けれども神様に通うような思いで言うておるかと言うとさに有らずである。先生方がかしこみかしこみまうすと言うておるけれども。それほどしに神様をです、恐れおののくおどしのところで、神様に向うておるかと言うと、ただかしこみかしこみ申すだけで。
言わば言葉だけで終って、いわゆるマンネリ化してしまっているという事。このマンネリ化するという事が怖い。どうでも生き生きとしたいわゆる瑞々しい信心を、もう一遍私は偉大な馬鹿と阿呆にならせて頂く精進を、さして頂きたい。そして合楽の方達の場合はです、その手立てがいろんな角度から説かれてあるのですから。私が4年半さして頂いたような、そういう事にまで馬鹿と阿呆になることはいらん。例えば皆さんところに金を借りに来たけんで、はぁなら貸してやるという事じゃない。
問題はその人のことを思うてみてからの、言うなら答えが出てくるのである。ですからねこの辺の所のひとつ、頂き方をいよいよ密なるものにして自分のものにしてね、それこそ偉大なおかげの世界、しかもこの世あの世を通して助かっていける世界を、目指さしてもらう。そういうおかげの頂けれる世界を目指さしてもらう。そういう切り替えをね、なさなきゃならない。それには今朝の御理解を頂きますと、私共がいよいよもって、障子一重がままならぬ人の身であるという、自覚に立てという事でした。
まぁだ自分がする自分ができる、神様のおかげを頂かなければと言うておるけれども、そこまで至っていない。一つ本気で障子一重がままならぬ人の身であるという事を分からしてもらう。そこから縋らずにはおられん、神様のおかげを頂かなければ手は無いというところから、んなら神様が言うて下さる事もまた、聞かずにはおられない守らずにはおられないというところまで、信心を進めていきたいものですね。
どうぞ。